尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

元東京都の中高教員です。映画や本、ニュースなどについて書いています。

梶原阿貴『爆弾犯の娘』、こんな面白い本は滅多に出会えない!

 ものすごく面白い本を読んだ。最初はどうなるのかと思いつつ、途中から凄い、凄いと驚きながら読みふけった。最近はすぐ眠くなっちゃうんだけど、久しぶりに一日で最後まで読み切ってしまった。読みやすい文章とはいえ、止められなくなったのである。

 梶原阿貴爆弾犯の娘』(ブックマン社)という本で、著者の梶原氏は女優から脚本家になった。高橋伴明監督の『夜明けまでバス停で』『「桐島です」』の脚本を書いて注目された。2025年7月に出たこの本が面白いという評判は聞いていたが、本屋でなかなか見かけなかった。(原則、本屋でしか買わない。)やっと見つけたのだが、噂以上の超絶面白本だった。この本のメッセージはとても深く、是非多くの人に読んで欲しい。

 この本は梶原阿貴の半世記で、基本的な設定は題名にあるように「爆弾犯の娘」として育った生育歴がリアルに描かれる。その主テーマに関しては後で詳しく書くけれど、この本の面白さはそれだけではない。物語は主役だけでは成り立たない。読むときの楽しみのため詳しく書かないが、とにかく脇役的人物の存在感が見事なのである。さらにこんなことがあるのか的驚きの連続。実在人物も一杯出て来て飽きさせない。

(梶原阿貴氏)

 僕は梶原阿貴という人を脚本家として初めて知ったが、実は女優として映画を見ていた。「デビュー作」となる中原俊監督『櫻の園』や大林宣彦監督『青春デンデケデケデケ』にそれなりの役で出ていたのである。あの役をやってた人は誰?とまでは思わなかったが、言われてみればそういう人がいたなと思い出す。ちゃんとセリフがある役を10代でこなしていたのだ。その撮影当時のことは是非本書後半で確かめて欲しい。

(父親と、本書掲載のもの)

 60年代末から70年代初期にかけて、日本でも数多くの「極左テロ」が起きた。誘拐事件はなかったが、爆弾、ハイジャック、人質立てこもり事件などがたくさん起こった。すぐに逮捕された事件が多かったが、中には「犯人」が逃亡したケースもある。特に記憶に残っているのは滝田修(本名竹本信弘)や桐島聡で、滝田修は1972年1月に指名手配され1982年8月に逮捕されるまで10年7ヶ月「逃亡」を続けたことで知られる。

 著者の父親は梶原譲二といって、俳優をしながら運動に関わっていた。「新宿クリスマスツリー爆弾事件」(1971年12月24日)で知られる「黒ヘルグループ」である。特定セクトに属さず黒ヘルでデモなどに参加していたが、やがて鎌田敏彦らを中心に過激化、先鋭化していった。梶原が仕掛けた爆弾は不発で、組織内でも「大物」ではない。

 しかし、そのグループの中で最後まで「逃亡」を続けたのが、梶原だった。何でも長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』には、梶原と桐島が手配されたポスターが背景に写り込んでいるという話だが、僕には梶原の名前さえ覚えていない。まあ、はっきり言ってそんな「重大犯」じゃなかった。しかし、梶原譲二は特別な逃亡生活を送った。

 何と指名手配中にプロポーズして受け入れられ、都内で一緒に隠れ住んでいたのである。そして1973年5月には娘が生まれた。梶原阿貴はそれは考えられない「無責任」だと何度も書いている。僕もこういうケースを全部知っているわけじゃないけど、国外にいた重信房子を除けば、逃亡中に妻子を持った男は高野長英以来じゃないのか。

 いや、もちろん子どもは「愛」によって生まれたのである。しかし、誕生後子どもぐるみで「逃亡生活」を続けるしかない。母の籍に入って、表面上は「母子家庭」として暮らしていたが、何度も引っ越しを繰り返し、そのたびに外に出ず隠れ住む「謎の男」がくっついてきた。それが「父親」で何と言う名前かは知らされなかったのだ。学校で友だちが出来ても「家に呼んではダメ」と言われ、家の鍵さえ渡されなかった。

 つつましく暮らしながら、時々忘れられない「外出」があった。小学校高学年になると、母親は娘をお芝居に連れて行った。それが唐十郎の紅テントや浅草でやった第七病棟の芝居だった。母親は石橋蓮司を見て涙を流し、娘はもしかしてこの人が本当の父親じゃないのかと思い込む。実は梶原譲二は「現代人劇場」に所属し、出演もしていた。母も当時のアングラ演劇を見ていたのである。また母の思い出の那須・三斗小屋温泉に一家で行ったこともある。そして、そこで驚くべき事件が起きるのだが是非本書で。

(中原俊『櫻の園』1990出演時)

 両親もこのような暮らしはもう続けられないと思っていた。そして娘が中学に進学する時点で、父親は自首して裁判が始まった。それまで池袋のど真ん中で暮らしてきたのに、突然「田舎」の小金井市花小金井(東京の多摩地区)に引っ越し、埼玉県飯能市の「自由の森学園」中学、高校に通うことになった。そして、著者も俳優を志望するようになる。母親は若松孝二監督のところに連れて行くのだが、それ以後は本書で。

 この設定は、ほとんど実録『ワン・バトル・アフター・アナザー』である。あるいは昔の映画だが、リヴァー・フェニックスが主演したシドニー・ルメット監督『旅立ちのとき』(1988)である。著者は『スタンド・バイ・ミー』でリヴァー・フェニックスのファンになって、池袋の映画館に見に行った。そして「過激派の父母に生まれて全米を逃亡する」という話だったので、これはまさに自分だと気付いて茫然とする。

 そんな梶原阿貴は「自己責任」という言葉をなくしたいという。「本書で伝えたいのは『どんな環境に生まれても、努力次第で人生は切り拓ける』ということでは断じてありません。」適度に親のせいにしたり、他人のせいにしたり、社会のせいにして生きていきましょう。そして自分に余裕ができた時には、社会全体をみんなで変えていきましょう。やさしさを組織していきましょう。これが著者の深いメッセージなのである。